過ぎ行く時の行間ものがたり
>>tabitoma 「旅のとま〜る」 TOPに戻る<<
荷物を整理していて、父が生前に一時勤めていた企業の会報が出てきた。

昭和55年5月発行で第43号と記された表紙をめくってみると、
「山の随想 八ケ岳へ」というタイトルの父の随筆が掲載されていた。
山好きの父が自分の経験を原稿用紙に綴っていたのは小学生だった私も知っており、時折、会報に掲載されていたのも承知していたが、どうやらこの会報への掲載が最終稿のようだ。文頭に(故)の文字が入っているので、父の他界後の発行らしい。

久し振りにその表紙をめくり色あせた頁の文字を追ってみた…。
父の若かりし頃の話だろうから、ここに描かれているのは今からもう50年以上前の情景だろう。今と当時では相当の変貌があるだろうし価値観も変わってはいるが、過ぎ行く時の行間に秘められたものがたりを想像してみるのもいいものかもしれない。


「山の随想 八ケ岳へ」

広漠たる原野は灰色につつまれていた。今にも降りだしそうな雲行が心配だった。
開拓された真新しい赤土が、放射線状に、長く、大きく延びていたが、数条、或は十数条に切開かれた新道路に、私達は、すっかり迷いこんでしまって、途方に暮れていたのだ。夜行列車できた、睡眠不足のためか頭はすっきりしない。それは丁度、何か重たいもので、押えつけられている様で、不愉快この上もない。から松林は、すっかり冬枯で物淋しげな立たずまいだ。荒野には、そばだろうか、余り豊かでない出来栄を見せていた。
私達は、二人でやってきたのだ。
楢や、栃の雑木林をかき分けて、あらちへ行ったり、こちらへきたりして正しい径を探すのだが、同じ様な径ばかりの、先はどんずまりへ出ていってしまった。
焦燥が、次第に強くなってくるが、少々感の鈍ってしまった登山知識は、そうした努力の総てを徒労なものにしてしまった。
狼狽して突きすすんだ径も、大きな流れの大障壁に突当ってしまって、処置はない。
私達ほ悲壮な顔色をしていたに違いない。
心を落付け様と草原で一服した。
可成り永い間であった。いくらか冷静を取戻してきた様であったが、このとき、通りすがりの村人を見付けたのは幸運だった。
私は、走り寄って道を尋ねたのだ。
教えられた径を、やっと正しい調子で歩いて、はじめて、ほっと安堵の胸を撫で下したのだった。
已に十一時になっていた。
今朝はやく、茅野へ降りて、駅でバスを待つ間に一時間ばかり浪費し、それでここの登山口に来る迄にもう三時間以上かかったことになった。惜しまれる時の空費であった。日和は、ときどき、霧が薄れることもあったが、全体的には、少しも好転はしていなかった。
今日は、十一月というのに、温か過ぎる位である。寒冷を見越して、厚着をしてきたのに、これでは歩くのに苦しい程だ。
空が暗くなったなあと思っていたら、雨になってきた、細い雨だ。
八ヶ岳の姿は、真白い雲におおわれてしまって、何にも見えない。
雨具を着る程でもないので、私達は歩みを続けた。

製材小屋があったので、ここで昼飯を済まして置こうと中に入った。
たき火の残り火があった処から見ると、誰かが出て間もないに違いない。茶碗が散乱していたし、鍋には、味噌汁をたいた後のにおいがきつかった。
私達は、コッヘルに茶をわかして駅弁を喰ペた。駅弁というのは、冷たくなってしまうと実にまずいものである。寒いので、これも駅で買ってきた日本酒の二合びんを飲んだ。
友は、元来、酒は飲まない性だったが、一合ばかりを、あっという間に飲干してしまったが、余程、寒かったに違いない。
体も温まったので、ここを発ったが、外は雪になっていた。
高度があるので、麓は雨霧でも山は雪なのだった、もう二寸は積っていた。栂の原生林が鬱蒼と小径を暗くしていた。

登山靴が、時々滑って不安定な登行振りだった。今夜は、赤岳鉱泉で泊る予定なので、たとえ日は短かくても、左程急がずとも着ける筈だ。友は、八ミリをしきりと動かして傑作をものにしょぅとしている。
大分道草を食った様だった。
鉱泉へ着いたのは、三時で、この辺は已に新雪が一尺も積って、厳然たる真冬の景観を示していた。
空は、玲ろうとして澄切っていた。先程迄の温暖さなんかと異った世界であった。

軒といい、庇といい、尺余のつららが太くたれ下っていて、八ミリの題材には、持ってこいなので、友は懸命になって撮影に飛び廻っていた。赤岳鉱泉を中心とした周辺の山々、登路と気温は、総て厳冬期の梯相を呈して、その威圧感に、ふと不安がまとってきた。
私達は、之に対する万全の準備をしてきたが、只一つ、ザイルは持ち合せておらなかった。
この降雪量では、背稜一帯は可成りの氷結状態であるに違いない。
私は、一時間ばかりかかって、附近の登路を偵察に行ってきたが、雪が深くて、奥へは行けなかった。
夕陽が、この鉱泉を抱きかかえた様な位置にある山群の、その岩壁の新雪を、アーペント、ブリエアーゲソに反映して、その美麗さは格別であった。
刻々と変化していく、赤と黄の色彩は、壮重にして厳粛そのものだ。
山の本では、屡々、この時の形容詞を読んではいたが、実際にお目にかかるのは今が初めてであった。
私達は、見とれていたのだ。
だが、冬の気温は寒く、冷たくて長らくは立停まらしてはくれない。
鉱泉のこの頃は、季節の外れた為に、森閑として、各部屋はがら空きで、私達二人きりだったが、それにしてもここの待遇は一寸酷過ぎる様だ。
登山者の、それも風来である一介の登山者には、こんなことを期待すること自体が無理なのかも知れないと思うのだが、乏しい夕食だった。
だが、不平は言うまい。
予想したよりも、明日の登行は難渋らしいので、私達は案内人を頼んだのだが、シーズン・オフの今では適任者はいないということだった。
私達は困っていたが、折良く、荷上げにきていた若い男が、一度だけだが、冬期に登った経験がある。
「自信はないが私で良かったら」と申出てくれた。
男は、明日の仕事の関係もあって、一日の猶予はないが、半日だったらと特に付けたしていた。
「それでは」と言うことになって、兎に角、稜線の処迄先行して貰うことに決めた。
新雪雪崩を警戒して、少し早い位だったが午前二時に出発とした。
登路が、すっかり凍結しているこの時間の方が安全度が確かなのだ。
雪路での転倒を防ぐために、短かい細引を一本持って行くことになった。「風呂の用意が出釆たから」と知らせてくれた。
私達は、一風呂を浴びてから、疲れ休めにちょっと、一本だけ付けたかったのだった。
友は、風邪気味だからといって、いくら奨めても入らなかった。私は広い湯槽を一人占めにして存分に手足を延して英気を養ったのだ。
夕食を済まし、食糧を包んだ。これで、明日への登頂の態勢はすっかりととのった。
あとは、出発迄の僅かの間を熟睡するだけである。
夜分に、得体の知れない野鳥の叫声に目を覚された、もう寝られない。
深々と更けて行く冬の夜は、起きにくくはあったが、私達は張切っていたので、そう辛いとは思わなかった。腹ごしらえも、普通なら満足に咽喉へ通らないのだが、空腹では万事処置がないので、二杯ばかりをお茶漬にして流し込んだ。
心配していた友の体も、調子はどうやら良いらしい。
外へ出ると、寒さはきびしいが満天の星で風が少しもない、今日一杯は絶好の日和らしい。
ランタンは、一個しか持ってこなかった。
私達三人は、初めから真田紐の細引で、互に確保しながら歩いた。
これは、結局、非常に役に立ったのだ。凍てついた山径で、私が二回と友が三回、若い男は二回もスリップして、危く転倒するところだった。
こんなときには、ランタンよりも懐中電灯の方が、余程に有効なのを知った。雪明りとは言え樹林帯の径は暗い。その上急坂とスリップを警戒しながら歩くので神経が疲れる。
中岳の山腹に達するころに白々と夜が明けてきた。ここらの雪量は深く、一番深い処では胸ぐらい迄もぐってきた。
私達は、登山靴の鉄鋲を通して身にしみてくる冷たさに参ってしまった。若い男の人は、わら靴を履いていたが、これは、雪にもぐることも浅くその上温いので冬の山村の人達には無くてならないものである。
私は、三十分ばかり借用したが、足がほこほことして少しも冷たさを感じなかったのを覚えている。
ここで私達は若い男と別れた。
ようやく疎林帯となった唐絵の樹間は、深い雪に埋まっていた。
私達は、片足を抜けば、反対の足が、深く雪の中にめりこんでしまうのに大分精力を消耗して、いくら休んだかも知れなかった。
風に当るところは冷たいのだが、ヤッケの下の上半身と、顔面は熱くて困った。休憩につぐ休憩で、思わぬ時間を費やして四万を見渡せる背稜部に出てきた。
雪も固く凍っている。

岩枚のつづく尾根筋は、つよい風で新雪は吹き飛ばされてしまっているのだ。今しがた迄、ほのぼのとして夜の明けるのを覚えていたのだが、気がつくと、もうすっかり明け放たれていた。
重畳とした雲海が、足下に展開していって壮観だ。
秩父連峰はかすかに黒ずんでいた。誰の目にも、それと分るのは、言わずと知れた富士山である。
私は目を換えて、これから直進する主峯を眺めたのだ。
赤岳は、三角形のあの特長のある山てんを岩と、氷と雪によそおわれて、それが未だ陽光を受けずに聳立していた、ぼやっとした薄暗さだった。冬山と一寸も変らないその自さに、私達は身の引しまる程歓喜に満ちた瞬間を味わって、たたずんでいたのだ。
アイゼソの具合も好い。私達は、金属的な快音に、あたかも酔った様に爽快さを味わい、一歩一歩と雪面を踏みしめながら頂上へ向ったのだ。大きな岩壁の突起があって、難場を思わせたが、へずりをせかして通過した。
ピッケルで、ステップを切りながら前進を続けた。このころには、朝の太陽が一杯に輝いてきて、その陽光が白銀の峯々に注がれて、美しさを何倍か増していた。
私達は、登山者の仕合せをじっくりと味ったのだ。
富士山は鮮かに浮び出ていた。
八ミリは、このときを待ち兼ねた様に、じりじりと精一杯の働きを初めていた。
私は、附近の山群をあかず見入り乍ら、友の喜々として撮っている歓喜に満ちた勇気と、それから労力とを思い、その成果に栄光よあれと心に念じていたのだ。
赤岳へは入時に着いた。
石室附近には、二、三の登山者がたむろして同じ様に登頂の喜悦にひたっていた。
考えてみれば、ここ迄に七時間余りもかかったことになる。
睡い目をこすりながら、兎に角無事に登頂が出来たが、思えば可成りのアルバイトだったものだ。

消耗度は甚かったが、それを償っても尚余る程程私達は嬉しかった。念願だった、冬の八ヶ岳を斯うも楽楽と登り得たことが無性にうれしかったのだ。
寒くはあったが、石室の外で一時間も休んで冬世界の山々をじっと見ていた。そのとき、偶然だった。浅間山が突然大境炎を中天高く上げるのを見たのだった。巨大に展がって流れる白煙と、どす黒い煙は、恐ろしい程の雄壮感に満ちていた。
ここでは流石に風が強い。私達はその中で、テルモスにつめてきた熱い紅茶をすすって、疲労を和げた。
晩秋の陽光であるが、雪に反射すると、弱い熱線が上昇してきて、風さえ避けていれば暖かく、それがやがて暑くてやり切れない程である。
いささかに、グロッキー気味の体なので、つい、うとうととなって来るのだ。これからは、一路下山するだけだから、少しぐらい、ゆっくりしても大丈夫なので、いつそのことに昼寝でもして行こうかと冗談が飛び出すぐらいだった。
充分の休養をとって私達は間もなく頂を後にした、途中の岩陰で未だ黒い夏姿のままの雷鳥を見かけたのは収獲だった。硫黄岳迄は、岩稜伝いが続いた。急峻な、せまい尾根通しであったが間もなくこれを過ぎると、後はもう楽であった。
だらだらと降りて行くと、雪の吹たまりでは新雪が二尺もあり、スキーがあれば飛ばしたい程の素晴らしいスロ−プがあった。硫黄岳の旧火口壁は、荒々しい茶褐色の岩壁を露出して悪魔の様相だった。
私達は、八ヶ岳と総称する火山群の一つ一つを名指しては、その山体を眺めては楽しんだ。
夏沢峠を過ぎると、径は俄かに、雪どけが泥ねい化していた。
牛馬車の轍が、幾重にも大きく刻まれて歩き難い。
峠を越えて、人の往来が繁しいことを物語っていた。向い側の山村か、それとも同じ様な旅舎へかは知らないが、それらとの生きるための交渉が、この雪深い晩秋の峠路に活発に繰返されているのだろう。
もう雪はなかった。
白樺の大きいのがあちこちに点在していた。そそとしたこの白樺は、とげとげした気持も、とたんに忘れてしまうのだから妙だ。
この白い色。山の緑の中で、見るこの色はどうも、女性的である。
だから線が柔かい、牧歌的であり甘い感傷がある。私は、信州の山が好きなのは、一つには、高山岳があるのと、一つには、白樺や、から松があるからなのだ。
冬の八ヶ岳をやったので、私達の帰りの足は以外に軽かった。

<<旅のエッセイTOPへ>>
>>tabitoma 「旅のとま〜る」 TOPに戻る<<